第1話:少年時代とバックパック作り
2026.09.05
この記事は、アメリカの公共ラジオNPRのポッドキャスト番組「How I Built This with Guy Raz」(司会:ガイ・ラズ氏)内のエピソード「Osprey Packs: Mike Pfotenhauer」(2023年2月20日配信)を書き起こし、和訳したものです。
マイクの生い立ち
──マイクさんのご出身はオレゴン州ポートランド、7人兄弟の末っ子です。大家族ですね。1950年代から60年代をポートランドで過ごされています。お父さまはルーテル教会の牧師で、毎週、家族全員で教会に行っていたそうですが、説教の内容にはあまり共感できなかったそうですね。
まるで理解できなかったと思います。あの頃は教会に座って周りを見回し、「この人たちは、今聞いていることを本当に信じているのだろうか?」と考えていました。実を言うと、おそらくこの教会が、私の頭の中で何かをデザインするようになった場所ですね……ただ目を覚ましたくて。
──時間をつぶすために、ですか。
ええ、時間をつぶすために。父の説教を何千回も聞いたと思います。ある意味では魅力的でしたが、子どもには難しすぎましたね。
──7人も子どもがいる大家族を、ご両親はどうやって養っていたのですか?今では想像しにくいですよね、牧師の収入で7人の子どもを育てるなんて。もちろん、そういう人もいたでしょうが。何か覚えていることはありますか?子どもの頃、お金の面で厳しかった覚えはありますか?
とても厳しかったですよ。どれくらい厳しかったのか、本当のところは分かりませんでしたが。外食は年に一度くらいだったと思います。父はカナダで生まれ育ったので、毎年夏には家族でカナダへ行っていました。
──車で、ですか?
はい。古いフォードのランチワゴンに、9人家族全員でどうにか乗り込んでいました。後輪のホイールアーチのところが、いつも私のスペースでした。
子ども時代のハイキングと冒険
──幼少期から、家族とハイキングに行っていたそうですね。私も、週末はいつも子どもたちとハイキングに行きます。でも最初の数年間はハイキングというより強行軍で、子どもたちは本当に嫌がっていました。
今では渋々ながらも「好きだ」と言って、一緒に行ってくれますが、もし彼らを放っておいたらビデオゲームをやりたがるでしょう。それでも私たちは、毎週ハイキングに行きます。あなたは子どもの頃、ハイキングが嫌いだった覚えはありますか?
ええ、それはもう。実際、私はいつも一番後ろを歩いていました。「どうして皆、そんなに急いでいるんだろう」と不思議に思いながら、自分が目にしているものを楽しんでいました。いつも皆に置いていかれて、「どうしてこんなことをしているんだろう?何の意味があるんだろう?」とも考えていましたけどね。
しかし年を重ねるにつれて、私は完全に、バックパッキングとアウトドアに恋をしました。
──兄弟全員がこうした旅に参加して、テントを張ったりしていたのですか?
ええ、そうでした。夜遅くまでかけて長距離ドライブをして、暗闇の中でテントを張るのです。使っていたのは、父が戦争の時から持っていたに違いない、ひどく古くて臭いキャンバステントでした。父は第二次世界大戦では海兵隊員だったので、古いバックパックや道具をたくさん持っていて、生涯使い続けていました。
──あなたが10代の頃にシエラ山脈を一人でさまよい、道に迷った話を聞きました。何があったのでしょうか?
すっかり忘れていましたが、本当のことですよ。あの時は家族全員でシエラ山脈の標高約7,000フィート(約2,130m)にある湖でキャンプをしていて、タホに戻る予定でした。ただ、湖までの道のりがひどいもので、舗装されていない曲がりくねった道を5時間もドライブするのです。だから私は車に乗るのを嫌がったのです。冒険をしてみたくて、「歩いて帰る!」と言い張りました。
──どこで合流する予定だったのですか?
タホ・シティです。
──皆は車で帰る、でもあなたは車で帰りたくない。だから一人でハイキングして帰ろうと?
はい。
──ご両親は許してくれたのですか?
少し言い争いになりましたが、父が「行け、やってみろ」と言って許してくれました。ただ、私が持っていた地図はひどいもので、たしかまるで関係のないカリフォルニア州の地図だったのですよ。そして少し気を抜いているうちに、どこかでトレイルから外れてしまったのです。道が途切れて、日が暮れてきて、私は迷ってしまいました。マンザニータの茂みを何時間もよじ登り、へとへとになりながらどうにか開けた場所に出ました。そこで寝袋を投げ出して眠りに落ちたのですが、目が覚めると、なんとそこはトレイルの上でした。
──怖くなかったですか?
少し怖かったですが、地形を見ながら進むという挑戦を楽しんでいる自分もいました。山の中で羊飼いを何人か見かけたので、いざとなれば助けを求められるだろうと思っていました。
──私は最近知ったことですが、ネバダ州とカリフォルニア州に跨るタホ湖の周辺には、羊飼いとして羊を育ててきたバスクの人々の大きなコミュニティがありますよね。
そうです。遠くに彼らが見えましたよ。
バックパック作りへの道
──あなたが中学生くらいの頃、家族でカリフォルニア、具体的にはサンタクルーズに引っ越したそうですね。大学進学後も他所へは移らず、カリフォルニア大学サンタクルーズ校で、アートと写真、版画などを専攻したと聞きました。
ええ、写真がもちろんですが、エッチング、絵画、版画などにも、ずっと興味がありました。自分自身の暗室もありましたよ。おかげで、写真についてはより深く学ぶことができました。当時からずっと私はアートを愛していますし、今も続けています。
──自分でバックパックを縫い始めたのは、大学在学中ですよね?70年代初頭のこの時代、私たちが考えるようなアウトドアギアの市場は、今のように大きくはありませんでしたよね。多くの人が自分で物を作っていた、と。
そうです。カットされた部品と説明書がすべて入ったキットを買うこともできましたし、自分でやり方を学ぶこともできました。母が私に裁縫を教えてくれたので、いつも自分のギアを作っていました。これは何と言うか……自分が自然の中へ出た時に使う物を知っていて、それを信頼できるし、何が正しくて何が間違っているかも分かっている、という感覚だと思います。それに、私は物を作るのが大好きなのです。自転車も自分で作りましたよ。溶接して、組み立てて。だから、私がずっとやってきたことなんです。自分が作ったものに囲まれて環境の中にいると、より安心するのです。
──70年代初頭にというと、テクノロジーが大きく変わっていく時代だったと思いますが、当時はキャンバスか綿か、あるいはポリエステルなどの素材でバックパックを作っていたのでしょうか?
いいえ、ナイロン生地です。当時も手に入りました。
──ナイロンですか、なるほど。それで、あなたは自分のためにそれらを作っていたのですよね?でもある時から、また状況が変わっていますね。誰かに「作ってほしい」と頼まれたのでしょうか?
ええ、お金を稼ぐために、ときどき他の人のためにも物作りをしました。それがやがて、「これでビジネスを始められる」という考えにつながりました。その頃は大学のレストランで働いていて、そこでお金を稼ぐためにいろいろな仕事をしましたが、すぐに「自分は誰かの下で働くことを望んでいないんだ」と心を決めました。自分の会社を始めたいと思ったのです。そして、自分にできることを仕事にしたい、と。